連続:サラリーマン生活物語(その6)

2015年  14日 09:46
1ヶ月後家族も九州から移って来た。家具類が届いた日に寮の若いもの全員が引越しの手伝いに来てくれた。有難いね。
仕事のメインは名古屋市内に本社のある中部鋼鈑㈱(厚板、縞板の電気炉製造工場)への設備・資材営業。最初に紹介された宇対瀬圧延工場長が私にとってその後大きな影響力を持つ人となる。「JOさんは入丸、大鋼どっち?」「入丸です」「それならOK」話を聞くと中部鋼鈑は以前大鋼と入丸の両社と取引があったが、会社が少し傾いた時大鋼だけ取引を中止して来たとの事「だから大鋼は嫌いなんだ」 その後この会社からは圧延機の更新を含めた数々の大きな設備・資材を受注し機材課の主要取引先となった。入丸であった事が幸運だったかな。
大鋼時代からの取引先に宮地鐵工所と言う天井クレーン、立体駐車場のメーカーがあり同社とは仕入と販売の取引があったが、私が就任早々に経営が破綻、その始末の段階でこの会社に関係していた加野次長と木村部長が昔の書類をひっくり返し自分達の責任逃れの証拠を探し回っていた姿は本当に醜いと思ったね。
当時同社は、当社本社から新日鉄が受注していた宝山製鉄所の天井クレーンを大量に受注していた為潰す訳にいかず結局は新会社MMI㈱と社名変更、日鐵商事の子会社として再出発する事となった。
中部鋼鈑との資材取引で圧延機のロール淀川製鋼所製を当社窓口で収めていたが、ロール加工に新日鉄も参入する事となり、当社にとって新日鉄は親会社でもありどうするかで随分悩んだが、交渉方法は言わないけど結局最後は両製品半分づつにしてその窓口は全て当社扱いで決着した。
競合製品を1商社で取り扱うのは前代未聞、2年位経って流石におかしいと気づかれどちらか一社にしろと迫られた時、淀鋼は半分諦めていたけど私は部長を説得して淀鋼の窓口を残したんだな。例え相手が親会社でも長年取引を続けてきた会社に対する信義だろ、これが私の主義だったんだ。(後で少し問題にはなったけれどね)
私は扶桑町の借上げ社宅を3年後に、名古屋市内との中間になる西春町へ転居した。理由は長崎部長の言われた通り遠すぎたね。飲み事で遅くなるとタクシーで帰るのも大変、結局サウナで週に2回は寝泊りする始末、とうとう加野支店長に気付かれる事となり「転居させろ」の鶴の一声、息子の高校通学の事もあって中間地への転居となった次第、これから西春での生活が始まった。(続く)

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