連続:サラリーマン生活物語(その3)

2015年  08日 08:45
私は昭和43年福岡営業所に転勤となった。ブルドーザーの引揚げ以後、石橋を叩いて渡るタイプの支店長は怖くなって私を追い出したんだと思うよ。それが反って有難く小規模の営業所は本来の鋼材営業を含めて何でもやらねばならなかったからね。私の営業テリトリーは福岡、佐賀、熊本、鹿児島で営業所がその後支店に昇格してもこれは変わらなかった。
私は新入社員時代からの10年間がその後の営業の全ての基本になったと思っている。
当初入社面接で希望を「総務」と答えたのは満更嘘では無い。自分の性格の優しさから押しの強さに欠ける点を認識し、対話で相手との心を通わせていく努力と忍耐が、営業力を過信する者より失敗の無い営業力を培って行ったように思う。営業に向いていないと自覚していた分、相手に気づかれないように対策を積み重ねていった結果が今の自分だと思っている。
特約店向け、ゼネコン向けの営業は一層自分を鍛えてくれたが、某特約店の倒産に伴う社長の自殺は良い人だっただけに不幸な思い出として残っている。
昭和52年8月新日鉄は資本金500万円で日鐵商事㈱を設立、目的は神戸製鋼の神鋼商事、川崎製鉄の川鉄商事のように新日鉄としての専業商社を設立したのである。同年11月に既に事前協議済の入丸産業と大阪鋼材が日鐵商事に吸収合併された。
その時既に業績不振で三菱商事の管理下にあった大阪鋼材(大鋼)と当時米国入丸に問題が生じていた入丸産業(入丸)とには吸収合併が最高の生き残る道だったとTOPは思っただろうが寝耳に水の入丸社員達は戸惑うばかり。
日鐵商事はその後ご多分に漏れず合併会社同士の勢力争いが長く続いたが、三菱の管理下に置かれ苦労した会社と苦労知らずの役員が多かった会社とは結果は明白で以後旧入丸の社員は何かと不利な立場に置かれる事になる。
合併時私は福岡支店の一般鋼材販売の営業課長代理であり、期せずして旧大鋼福岡支店にいた大学同期の大森君が、大鋼の政策だったと思うが合併直前に営業課長になっていた。聡明な方はもうお判りだよね。
合併人事では新支店支店長は旧大鋼吉岡支店長、旧入丸松尾支店長は副支店長、条鋼営業課長は大森君、私は課長代理、この日に合わせて対策を行っていた大鋼は、旧会社の勢力範囲通り東日本は入丸に有利に、西日本は大鋼に有利に人事を進めたのである。旧入丸松尾支店長は合併直前迄、自分が支店長になれると自分で自分を鼓舞していたようで、情けない位にそわそわし落ち着かぬ様子であった。
大森とは年齢は私が1歳上、大学時代から彼からは「さん」付けで呼ばれていたが、急に「JO君」と呼ばれた時は戸惑ったけれど、こんな事でかっとするような私ではない。同じ課に配属された昔の部下の女子事務員が二人の関係を知っていただけに怒っちゃってね、宥めるのに苦労したよ。私の事なのにね。
ただ合併時は良くある事とは思うが、学生時代の同期を同じ課の上下関係に配属するのは余りにも配慮が無いねぇ、確かに入丸のトップにはそう言う考えが出来る人が居なかったと言うことだろうし、自分の事で精一杯、身内の事でも考えてやるゆとり等は無かったのだろう。(続く)

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