私の生涯日誌 その77

2016年  17日 07:00
その後は大きな事故も起こらず取引は順調に推移し、丸喜産業との取引は与信限度を10億円迄引き上げて貰っていた。戸田課長退社後は田中課長になっていた。
私は入社して14年を営業で過ごした。入社の面接で総務を希望した様に営業に自信がなかったのは、自分自身自分の性格の優しさを知っていただけに、厳しい営業に向いていないのではないかと思っていた訳だ。

しかしながらこの入丸での14年間の色々な出来事が自分を強く育てると共に、自然に考える力や対応力を養い、強引にならずに対話で相手との心を通わせて行く営業姿勢が、営業力を過信する者より失敗の少ないやり方を培って行った様に思うし、自分でも気付かなかった性格を引き出してくれた様な気がしている。私のこれからも続く長い営業人生の、基本となるものの全てが包含されていたのが、この14年間であったと思っている。

昭和52年当社と大阪鋼材との合併問題が持ち上がった。大阪鋼材は当時田中電機の倒産により多額の負債を抱え、自力再建は困難な状況下で三菱商事との業務提携に活路を求めていたが、実質三菱商事の管理下で厳しい経営を強いられていた。当社は地方の我々には良く判っていなかった米国入丸の運営が破綻を来たしており、本体もかなり厳しい状態に置かれていたらしい。
新日鐵は2つの会社を救う目的と、川崎製鉄と川鉄商事、神戸製鋼所と神鋼商事の関係のような販売目的の100%子会社を作る事を考えた訳である。

従って新しい会社は合併で出来た会社では無く、新日鐵が100%出資した完全子会社の日鐵商事と言う新会社を資本金500万円で設立させ、その会社に入丸産業と大阪鋼材を吸収すると言う形をとったのである。古い2つの会社は消滅し全く新しい日鐵商事㈱が2つの会社の資産並びに債権債務を引き継いだ形で発足した訳である。

私達はその後新会社を説明するに当たってつい合併会社と説明していたが、新日鐵の人達に言わせると「何が合併会社だ、君達は新会社に吸収された会社の社員なんだ」と言われ、新日鐵の正式な系列会社となった事を喜ぶべきなのか、惨めな思いをしなければならないのかと不安だったが、新日鐵の100%子会社としての日鐵商事は名前からしても、相手に堂々と名乗れる気持ちになったのは確かである。

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取引先も招待しての日鐵商事㈱創立披露パーティ。 会場入口でのお出迎え、燻金色の背広だ。立花君。

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-  2016, 03. 17 [Thu] 22:25

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-  2016, 03. 18 [Fri] 16:45

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