私の生涯日誌 その71

2016年  10日 13:20
昭和47年に沖縄の本土復帰が為された。パスポートもいらなくなったので、翌48年に当時の日鐵金属工業の二人と沖縄に出張に行った。1泊2日の出張だったので着いた当日に仕事(何の仕事だったか忘却)を済ませ、翌日タクシーを借り切って観光巡り。当時の沖縄の道路は未だ米国並で右側車線走行だったな。丁度夏の甲子園高校野球決勝戦で広島商業が優勝したんだった。

まず首里の門で記念撮影、丁度観光案内の沖縄衣装を纏った女性が居たが、顔は沖縄独特の彫りの深い美人さんだったが、足が太くて真っ黒でね、何か釣り合わなかったな、そう言えば肌がギトギトした感じだったが、朝の味噌汁にも油が浮いていたな、日頃暑さ対策で油物を沢山摂るらしい。

首里の門から健児の塔、福岡県慰霊の塔、多くの女性が投身自殺をした北端、風葬の場所、ひめゆりの塔等殆ど全ての観光地を回った。恐らくもう来れないのじゃないかと思ったのでね。

丸棒の相場は更に悪化した、丁度その時に出口組から運命の引き合いがあったんだ。物件対応では無く枠取りの異型丸鋼ベース1000t、出口組加工場持込指値2万円/tだった。当時の相場は19,000円前後、この引き合いを石田支店長、戸田課長と3人でじっくり話し合った。

結論は3人共相場は未だ下がる可能性が高い、受けてみようと言う事になった。当時は会社として空受けは禁止事項では無く、契約そのものは違反行為では無かった。単純な話ではあったがこれで儲けて社内旅行はハワイでも行こうかと言う軽口も出た位であった。

不幸な出来事はそれから半年もしない間に起こった。石田支店長がガンで入院しあっと言う間に亡くなった事だ。その後釜として赴任して来たのが最悪の松尾支店長だった。

2016_0309入丸八幡0001  2016_0309入丸八幡0006
首里の門                    福岡県慰霊の塔前

COMMENT 4

ひろし  2016, 03. 10 [Thu] 15:10

第一次オイルショックの影響で(原油価格が4倍に跳ね上がり)、狂乱物価となり、日常品の売り惜しみが横行し、洗剤・砂糖・トイレットペ-パ-・ガソリン
等が一時的に姿をけし、家庭を預かる主婦は大変でした。鉄鋼業界も同様で、市況品種の相場はうなぎ昇りで留まることはなく、引き合いは実需の数倍にふくれあがり活況を呈しましたが、宴は長く続くはずはなく鉄屋はその後数年に亘り体力を消耗しました。特殊鋼より普通鋼のほうが価格が高いという珍現象がおき、某特殊鋼専業メ-カ-が普通鋼を一時的に生産した?と言う笑い話もありました。

編集 | 返信 | 

エースの城  2016, 03. 11 [Fri] 09:55

To ひろしさん

コメント有難う
2万円切っていた丸棒があっと言う間に10万円になって、あの時は大変でした。上司がダメだとタイミングを失うしね。営業は大変でした。

編集 | 返信 | 

ひろし  2016, 03. 11 [Fri] 14:50

当時としては、ベストの対応で、表彰ものではありませんか?、寂しいかぎり、何処も同じ秋の夕暮れでございます・・・・。都合の悪い事は、「聞いてない」「しらんなあ」平気でこの言葉が使えるように成れると人は大切なものを無くすのでは?部下は苦労の連続ですね、殺生与奪権を持っているので手に負えませんなあ。
某高炉メ-カにも良く似たのがいたなあ、泣かされた連中は数しれずその後偉くなったのかなあ?

編集 | 返信 | 

エースの城  2016, 03. 12 [Sat] 08:26

To ひろしさん

コメント有難う
殺生与奪権とは難しい言葉を知ってますなあ。
そうそう前に教えて貰った課員、柳井君と佐治さん間違いありません。名古屋で最初に佐治さんから聞いた名古屋弁に びっくりポン した記憶があります。

編集 | 返信 |