私の生涯日誌 その22

2015年  22日 12:20
そろそろ卒業が近づいた。ある日担当の新崎先生に職員室に呼ばれ個別の話があった。
「○○君、卒業に当たって市長からの市長賞をクラスから1名選出する事になっている。私は君を指名したいと思っているが、一つ気になっている事がある。菊川さんとの関係だけど、どうなっているの}「結婚するつもりです」「えっ!もうそんな関係なの」「いえ今は何もありませんが、将来は結婚するつもりです」「ふぅ~ん」

結果として市長賞は私が貰った。勉強で競り合っていた藤君はこれで発奮して先の事ながら東京大学に現役合格し日本IBMに入社した。私は格下の山口大学経済、そして新日鉄系の日鐵商事に勤めたが、最終的にはどちらがどうだったとは言えないけれど、彼は平成22年に亡くなり、長寿ランキングでも私が勝ったな。

その後のクラス会で先生にお会いする度「あの時は冗談位にしか思っていなかったけれど、本当だったんだねぇ」と早苗と結婚には驚いていたが「素晴らしい事、○○君を今一度見直したね」とも言って貰えたんだ。

優等賞はクラスで私以外に藤、日高、大庭、菊川、勝浦の6名。小学時の彼女林克子は宣言通り4組で市長賞を獲得した。卒業前に当然高校入試があり、ほぼ全員が若松で唯一の若松高校を受験したが、予想に反して親友の椿田が不合格となり、私立の西南高校に去っていった。

早苗とは迫田の家まで訪問する間柄になっていた。親父さんは国鉄若松機関区勤務、戦時中は華北交通に勤め中国に住んでいたが終戦の20年12月に引き上げ、親戚の居る折尾に暫く居て勤めの関係で若松に移住した。
兄一人、姉一人で二人は私の長兄と次兄と同じ年なのも変なめぐり合わせだ。母親はS22年逝去、以降姉と二人で炊事洗濯を受持つ暮らし、兄は2年早く帰国し折尾で東筑に入学していたが中退して若松市役所に勤務するも、結核にかかり門司で療養。
私が訪問した頃は右肺摘出手術後の自宅療養2年目位だった。 家庭は片親だったが家族は円満で彼女も素直に育っており私は無口な親父さんに気持ちよく受け入れられたんだ。

2015_1222賞状0002  通告表1、2、3学期と学年
2015_1222賞状0009 市長賞
2015_1222迫田0011 早苗宅姉と。

COMMENT 1

ひろし  2015, 12. 22 [Tue] 14:23

NoTitle

無事卒業おめでとう。純愛物語はまだ先があるようなきがする。小生疎開先の岡山で、サナトリウム
という(結核患者の療養施設)があったのをおもいだした。遠目に、白衣姿の人を見ただけだが、人里離れた山間にあったような気がする。

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