私の生涯日誌 その16

2015年  15日 08:53
私は肋膜で一学期は休学し、先生にはその間私の自宅まで教材を幾度か持って来て戴いた事もある。肋膜も落ち着き二学期から出校すると、先生は休学されており宮崎先生が受持って下さったが、10月に入って間もなく病状が悪化し帰らぬ人となった。当時の結核は不治の病だった。

元重先生の葬儀にクラスから2名参列する事になり、男子は私、女子は菊川が指名された。私は一学期休学の為通告表は評価不能になっており二学期間もない成績だけで、何故私が選ばれたのか・・・恐らく品の良い顔立ちが先生の好みだったからだろう。葬儀は運動会の前日だった。

処が先生の実家の大分県佐伯市?に行く汽車の中で私は乗り物酔いでダウン、当時の蒸気機関車の煙の匂いが駄目だったんだ。格好悪かったけれど仕方ないよなぁ。先方に着いてからの葬儀がどのようだったかの記憶が無く、家内にその時の様子を聞いたら、弔辞を私が読んだそうだ。ちゃんとやってたよ・・だそうだ。

私の記憶にはその後のお斎の味噌汁の中にイリコ出汁がそのまま入っていて、それを見てか匂いでか又胃が気持ち悪くなった事を覚えている。変な事ばかりの記憶で先生も浮かばれなかったかも知れないな。ただお陰で妻とは今でも記憶の共有が出来ている。

当時の校長は大和校長、クラス担任と授業は1組:今川(国語) 2組:太田(簿記算盤) 3組:伊藤(英語) 4組:橋山(社会) 5組:宮崎(家庭科)、5組の宮崎先生は元重先生亡き後臨時で受持ちとなり、2年から3年卒業までは新崎先生(家庭科)にお世話になった。

その他授業では安部(数学)、森川(理科)、隈⇒田畑(音楽)、添田(体育)に教わったが、添田先生は親父さんが若松高校の教師であり弟が私と学年が一緒だったと思う。
当時は移動教室でね、自分の教室で受けた授業は数学だけだったな。

康介兄の話では私の父がPTAの会長をしていたとの話があったが、恐らく兄の卒業の後に会長を辞めたのだと思う。私の記憶では父では無かった気がする。

2015_12141年成績0003
右側は二学期、三学期、学年であるが、英語は一学期のブランクは大きく、更には担任の格好が派手な伊藤歌子先生に馴染めず、取り戻せないまま評価は4ばかりになった。音楽は楽譜が読めず3があるのは仕方がないが、唱歌・楽器が4は気に入らないなぁ。だけどこれでも優等賞を貰ったんだから文句言えないか。

COMMENT 3

ひろし  2015, 12. 15 [Tue] 11:45

NoTitle

小生も中学2年の時、肺炎で2ヶ月ほど学校を休み、ペニシリンのお陰で治ったような記憶がある。学校を休むのはつらいね。
写真のマドンナは、いまの奥様ですか。シアワセだなあ(この言葉流行ったよなあ)

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エースの城  2015, 12. 15 [Tue] 13:45

NoTitle

ひろし君 コメント有難う
君も病気で休んだから、後頑張って立派な人間に成長したんだと思うよ。

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-  2015, 12. 15 [Tue] 22:36

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