私の生涯日誌 その14

2015年  12日 09:51
丁度小学校時代を書き終えたなと思った時、康介兄から手紙が届いた。昭和16年と昭和22年の我が家周辺の家の名前の地図と我々の遊びの区域、更にはその家の家族構成と言うか子供の情報。3歳も年が違うとこうも記憶が違うのかと思う位兄の記憶は広範囲に亘っていた。確かに私の記憶にも残っている家もあれば、兄の説明書を読んでああそうだったと思い出す事もあった。

2015_1211近隣地図0002
兄が書いてくれた周辺地図。緑色が当時の我が家、私も我が家を中心に、思い出した事を少し書いてみよう。

○道路沿いに下って直ぐの長谷川昌彦君の家の前が溜り場になっていて、そこで釘差しをしたりコマをしたりリレーごっこのスタートになったり殆ど決まっていた。何年か前にその道を通り寝けたらその狭さに驚いた。子供と言うのはおの狭さが快適だったんだ。

○前の道を下って小石宅を白山神社方面に曲がった柏木家の2人娘、親父は外科で端正な顔立ちだったが娘は2人共美人でね。姉は日本的美人で大人しい紀子、妹は現代風美人で勝気だった時子、未だ小学生だったが本当に綺麗な顔だった。

○家を出て左の階段を上った所に臨済禅宗の高岳寺があり我が家のお参りもお願いしていたが、長男の喜義さんは当時新聞記者で夜によく我が家に遊びに来ては従軍記者時代の面白い話をしてくれていた。この人が静岡県引佐郡の臨済宗大本山方広寺の第九代管長だった荒金天倫の若い頃の話である。旧制若松中学の卒業生で、管長になった話は随分後で聞き驚いたが、一度訪ねて行こうと思っていた矢先の平成2年69歳で亡くなった。記者から再修行で管長になるとはやり手だったんだ。

○白山神社に行く途中の春日家の庭に戦時中焼夷弾の大きなケースが落ちて来てね。勿論警報解除の後、何か落ちてるとの事で見に行ったが丸い大きな筒の中が10個位仕切ってあって空だったが、その中に焼夷弾が入っていたと思うよ。
その先の白山神社の石段の下に戦後引き揚げて来た男性が一人住んでて、漫画を書いて売っていた。紙を持って行くと真田十勇士とか上手に書いて、色鉛筆も持っていたな。家族が判らないとかで時々パンを持ってあげた記憶がある。何時居なくなったかの記憶は無い。

○三中の上の家の永田の俊さんは大分年長だが、後年二中のクラス会に来た同級生が車椅子に乗せて連れて来た主人が俊さんだった。事故で半身不随との事で昔の話をしたら覚えていたね。正に奇遇だったがそれ以後のクラス会には連れて来なかった。

○隈井さんの前の階段踊り場から左に入った田川家の息子2人の上の子と中学で同級生になる。処が小学生時代の記憶は少ないのに、酒に酔った親父が子供をいじめたと怒鳴り込んで来たり、遠くから石を投げて玄関の硝子を割った時は勝気な我が姉がシミーズのまま飛び出して追っかけたり、何か仲が悪かったと思うがその頃の田川慎二は親父似の悪ガキだったと思う。

○小学1年で射精したと思っている所は、白山神社下の山本家前の階段下の坂道で、坂に沿っての石垣だから随分高い石垣だった。後で小学1年でそんな事あるかいとの意見をくれた友人がいたが、その石垣と共に記憶は残っているんだ。

○二中の上の市川家は二人姉弟の姉が若松小学校の教師で、康介兄も私も映画鑑賞の許可証を貰いに良く行っていた。近いので助かっていたね。親父さんは大工で市川家の斜め前の芹川宅(数年後父がこの家を購入終の棲家となる)の改築を請負い広い縁側と二階が頭でっかちの家となっている。(小学校時代迄完続く)

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-  2015, 12. 12 [Sat] 17:36

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-  2015, 12. 12 [Sat] 17:38

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