私の生涯日誌 その5

2015年  01日 10:38
新聞でも戦争のニュースが盛んになり母もモンペ姿に変わった。来た当初の浜の町から山手通りの新築の銀行社宅に転居した。見取り図を描いて見たが玄関が広く廊下がぐるっと一回り出来たのを覚えている。
その当時の出来事を順位不同で列挙すると。

○夜寝る時にはいつも父が添い寝をしてくれて物語を聞かせてくれるんだ。勿論自分で勝手に作った話でね、だから数日後にあの話がいいと言うと父は困っていたなぁ、いい親父だったんだ。

○旧制中学(今の中学)に進んでいた長兄龍介が勤労奉仕で工場作業に従事し、報酬として得たコッペパンを夕方自宅に持ち帰ると、姉がリードを取って物差しを使い4等分し、4人で1切れづつ食べた記憶。今考えても兄も良く食べずに持って帰ったなと思う、自分が食べる喜びより、皆が喜ぶ顔が嬉しかったようだ。

空襲警報がなると3畳の下に掘っていた防空壕に全員が入り、龍介兄が上に布団を被せていた記憶がある。警報が酷くなると50m位先の崖の下に掘っていたトンネル式防空壕に移動する。
その時手製の防空頭巾を被って行くのだが、その防空頭巾に血液型Aと書いてあったのを記憶していて、40過ぎ迄自分の血液型をAと思い込んでいた。血液型の性格判断でも納得していた訳だが、この後どうなったか、この話は長くなるので後日に。ただトンネルの中の湿った土の匂いは今も忘れられない。
今考えても小学校入学前の子が、血液型Aとどうやって理解したのか不思議でならない。本当はO型だったんだ。

○母親に手を引かれ市場に買物に行った時、久保田八百屋にデブの子供が居て、私の買って貰ったばかりの絵本を取ろうとしたので逃げ回ったが、小学校に入学したら同じ組にそいつが居たんだ。今度はイジメてやったねぇ、デブでも弱かったんだ、もう時効だけどね。

○康介兄とその友達に付いて石峯山近くの水源地に遊びに行った時、途中で休憩した大きな石の上に弁当を入れたバックを忘れてね。弁当はアルミの長方形で二段目におかず入れがあった。
目的地に着いて思い出して、兄も一緒に大急ぎで戻ったけれどもう失くなっていたんだ。戦時中の食糧難の時代折角母が作ってくれた弁当は、今、当時を思い出しても、その時の気持ちで胸がキュンと痛む思い出なんだ。だが兄の話によるとその時母はバッグの方を惜しがっていたそうだ。子の心親知らず。

○家で飼っていた三毛猫は代々トンと言う名前であった。芸を仕込もうとイリコを糸で結んでぶら下げる、猫が脚で立ち上がる高さにして前足でイリコを引っ掛けようと伸ばした時に、その足を持って耳の後ろでお招きをするように訓練するんだ。その後にイリコを1個与える、これを繰り返すと猫でも覚えるんだよ。
両足でチンチンする形をした時に、お招きと言うと、何度もお招きを繰り返すんだ。食べ物が少ない時代なので猫も一生懸命頑張ってたね、貰った途端に噛まずに慌てて飲み込んでしまうんだ。
これが判ったのでズルい事を考えてね、食べた途端に糸を引っ張るとそのままイリコが出て来るんだ。その繰り返しで可哀想だったけどイリコも貴重品だったんだよ。お菓子が無い時代で私のオヤツもイリコが多かったんだ。(続く)

2015_1130子供時代50002 庭の先は20m位の石垣で下に人家。
2015_1130子供時代50005 近所の女の子
2015_1130子供時代50009 玄関前、防火水槽に落書き
2015_1130子供時代50007 母も痩せてますねぇ

COMMENT 3

-  2015, 12. 01 [Tue] 12:33

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ごくしげ  2015, 12. 02 [Wed] 10:16

NoTitle

戦時中の話を聞くと、今の日本の繁栄が
とても凄いものだなぁ~~と感じます。
戦後70年も経ってしまっているんですね。

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エースの城  2015, 12. 02 [Wed] 12:38

NoTitle

ごくしげさん コメント有難う
早い時期に朝鮮戦争がった事が幸いしましたね。戦後直ぐも小学校低学年だっただけにあまり苦労したように感じなかったことも良かったと思います。

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