私の生涯日誌 その4

2015年  30日 09:55
前に進む前に少し時代背景を説明していた方が良いだろう。

明治時代の日清戦争も日露戦争も遥か昔、第一次世界大戦は大正時代、私が生まれた昭和13年は、丁度前年から日本と中華民国との戦、支那事変(日華事変)が始まって1年が過ぎた年、この戦争は昭和16年まで続き、12月に真珠湾攻撃の日米開戦から泥沼の大東亜戦争と引き継がれて行く。

この様な厳しい世相の中ながら支那事変は日本の勝利が続いており、写真を見る限り戦争の緊迫感は感じられない。昭和16年この大東亜戦争が始まる少し前に、父の転勤に伴い福岡県若松市に家族全員転居したのである。

若松市は火野葦平の「花と龍」でご存じの玉井金五郎のごんぞう(石炭荷役の沖仲仕)の町、昭和9年には未だヤクザの組同士の大喧嘩もあってこれを基に日活が企画した「博徒百人」と言う映画も作られたそうである。
転居して来た頃の若松の貨物の扱量は石炭を中心に日本一であり活気溢れた町であったが、街の中心を貨物電車が走り都会とは程遠い殺伐とした街であったようだ。

姉と長兄は神戸の学校から転校して来た。ところが昭和16年には国民学校令により制度が変わり尋常小学校が国民学校になり、姉は旧制女学校、長兄は国民学校に通うようになったと思うが、服装でまずいじめにあったそうだ。神戸の学校では制服の上着に半ズボン、黒の長靴下に皮の編上げ靴であったが、若松は未だ下駄や藁ぞうりもある世界、これではいじめられるのも当然だったようだ。

後の話になるが、父はこの子供達の転校時の苦労を見て、この苦労を繰り返させまいとこれ以降の銀行の転勤を拒否したそうである。銀行は転勤によって出世する制度、父は子供達の為に出世を放棄したのである。

この時期我が家の言葉遣いにも変革があった。おとうちゃま、おかあちゃまをお父さん、お母さんに変えたのである。この土地に根付く為にはちゃま使いでは生活出来なかったのである。当初は4人共馴染めず苦労の連続だったらしいが、使ったら罰金の制度迄作ってこの地で生活する努力が始まったのである。(続く)

2015_1129子供時代40012 康介兄と浜の町か。
2015_1129子供時代30007 若松での初雪、3兄弟
2015_1125昌介赤ん坊20022
顔立ちもしっかりして来たな。

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