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私の生涯日誌 その26

2018年  18日 13:20
2015.12.26の記事を転載

高校時代は何しろ青春真っ只中、写真も二人での写真が多く申し訳無い。

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山村先生 私が最初クレオパトラと間違ったのは、最前列の一番左。
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最上段を拡大、私の左が上野朗。私の前の白シャツの右の田中、キザな男だったが、社名は忘れたけれど結構大手会社の社長になったのを新聞で知った。。

 テストで名前も覚えられた所為か、早苗も多少目立っていた事もあってか、「菊川は○○の彼女らしい、手を出さない方がいいぞ」と言う噂が聞こえて来る様になった。その噂は上級生にも何故か聞こえていたようで、あいつは生意気だと言う噂が私にも聞こえて来る様になった。

 ある体操の時間に上級生と一緒に柔道をする事になり嫌な予感がしたが、来た来た柔道部のごっつい上級生からご指名がかかり、乱取りで結構投げられたな。当然だろ私は剣道部、柔道なんかした事もないんだ。だが上手に投げられていたら相手も満足したんだろう絞められはしなかったし、素直だと言う事だったのか彼女との事は何も言われなくなった。

 ただこれをきっかけに私は個人的に空手を始めたんだ。龍介兄の友達に副田さんと言う空手の黒帯の人がいたので紹介して貰い個人入門、週に何回か先生の家を訪問し家の前の道で修行するんだ。自宅の庭には拳を鍛える為の麦わらを立てて正拳突きで毎日鍛える。麦わらに巻いた白い布が血で真っ赤に染まるまでね。流派は松濤館、実戦には剛柔流が有名だが松濤館は形が綺麗だ。

 元々私の拳は指の関節の骨が高く、指と指との間の肉盛りが少ない為多少苦労したが最後は瓦を7枚位まで割れるようになっていた。勿論誰にもこの事は話さなかったけどね。だけど白状すると、昔の食べ物の好き嫌いがたたって基本的に骨が華奢で脆かった為、組手に弱く大成出来なかった。

 早苗の父は国鉄の機関区勤務だったので、足を鍛える為に頼んで鉄の高下駄を作って貰った。ある日それを履いて通学したんだ。流石に10km以上鉄下駄で歩く自信は無く、町に出て丸柏デパートの前からバスに乗ってね。だけどガランガランと町のど真ん中を歩くとは若い頃は思い切った事をしたもんだ。

 授業は移動教室で何の授業だったか運動場を隔てた旧女学校の校舎まで運動場と礫陵園との間のコンクリートの道を歩いて行く。天気の日はいいけど雨の強い時は堪らなかったな、冬は特にね。

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映画のワンシーンの様だな。  早苗は何故か目を閉じた写真が多い。
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3月21日の「遥かな日々」の記事に書いたように、白秋等の詩を読み自分も詩を作った、思い出の鐘つき堂。
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この黒帯は写真用で眉唾だな。ただもう実力的には白帯じゃないよ。

徒然日誌 改正水道法

2018年  16日 10:10
〇 私の生涯日誌を転載ばかりしていると、次第に怠惰になって新しくボヤキの記事を書く意欲が無くなってくる。以前は早く書かないといけないと急き立てられて、なんとか頭から絞り出していたが、一度楽をするといかんなぁ・・つい明日考えようとなってしまう。そう言えば記事の参考にとしていた新聞の切り抜きも最近はやらなくなってしまった。

〇 水道事業の経営基盤を強化すると言う目的で改正水道法が国会で可決、成立した。これで水道事業の民営化が可能となったと言うが、それで何も問題はないのか。日本の水道事業は原則として市町村が運営する事が法律で定められており公営となっている。

 所が人口減少等の水使用量減少で各自治体の水道事業は財政面で厳しい状況にある中で、水道管設備等の老朽化に対応出来ない問題が起こってきた事が改正水道法可決の根本要因だ。

 今回の改正水道法は設備は自治体が所有したまま、運営権を民間に売却し民間のノウハウを駆使して低コストで事業を運営してもらおうと言うもの。自治体には運営権売却代金が入るので設備の老朽化対策にも充てられるとの考えだが、水道事業は元々高収益が得られる事業とは違うだろう。利益が出ないとなったら当然料金の引き上げになるだろうし、場合によってはコストの引き下げで品質の低下が起こる可能性もある。

 一時的に民間に押し付けた所で人口減少や使用量低下を解決出来る訳では無く、もっと自治体として、国として根本対策を考えないと、一時凌ぎだけでは結局最後は市民に負担をかける事になりはしないか。

 大都会は人口も多く問題は無いだろうが、地方の過疎地域では負担も多くなり格差が出る可能性もある{現在も料金格差がある所(8倍)もあるが}。利益も出ないと判ったら民間業者で引き受ける所が無かったらどうするつもりなんだ。水は人間生きる為に絶対不可欠なものだ、だから民間業者が値上げしても絶対買うだろうとの考えは、国の施策として最低の考え方だろう。

 フランスのパリでは、民営化した後に料金が上がり再び公営化になったと聞く。政府として民営化したら大丈夫と言う考え方はどこから出ているんだ。公営だったらダメななものが民営だったら大丈夫と言う根拠はどこにあるんだ。民営だったら、なし崩しに値上げして行っても、国民は仕方無く従がわざるを
得ないだろうとでも思っているのではないのか。

 先日のテレビニュースでも岩手のペンションの水道の管理は民営の業者で、その業者が経営難になり料金(恐らく値上げだろ)支払はなければ水道を止めると言っており、自治体に相談しても水道局ではどうにも出来ないとの話。一回流れた放送で詳細には不明な所はあるが、私が言いたいのは民営業者が料金を値上げした時、反対して支払わなかったら止めるぞとの脅しに対し消費者側に手段が無いのではないかと言う事だ。

 確かにべらぼうな値上げには国や自治体の多少調整は入るだろうが、要は公営の値上げでは国民の反対に抗しきれないだろうから、汚い作業は民間に任せろ、国民は泣く泣く従うしかないと言う事だろ。

 未だ実際の問題点が上がっていないので憶測で話をしても迫力が無いし。取り敢えず今は問題提起をするだけしかないだろうな。この頃の政府の数に頼った一方的な制度改革には、国民はついて行けなくなって来ている。安倍政権の安倍首相の人気が何とか保たれているのも、支持の多い若者のアンケートでは、変えたくても誰も居ないから仕方がないと言う理由が最も多いと言う事を本人も良く認識しろよ。

  2015_0725早苗のちぎり絵0019  2017_0722ocn0001.jpg
  ちぎり絵   シクラメン            ポインセチア

私の生涯日誌 その25

2018年  14日 08:35
2015.12.25の記事を転載

 学校が始まって間もなく抜き打ちのテストがあった。確か英、数、国の3科目だったと思う。それから1週間位たったクラスの朝礼の時に山村先生から「今日は嬉しい報告がある、先日のテストの結果が出て、このクラスから1番が出た」、少し間を置いて「○○君だ」と私の名前が呼ばれた時はやはり嬉しかったね。

 当時は成績の順位を廊下に張り出す仕組みになっており、早速見に行ったら見上げる所に褌のように紙が貼ってある。気持ちの良いもんだよ、名前の下に合計点数が書いてあって何点だったかもう忘れたけれど、2中から来た連中と私のクラス以外には私を知るはずも無く、ただこの事によって私の名前を知って貰ったのは事実だ。2番が誰だったかも忘れたが、早苗が5番に居たのは覚えている。

 その後の授業も余り覚えていないが、最初の国語の時間が、女性の岡野先生で教科書の1ページに載っていたのが三好達治の「甃のうへだった。
「あはれ 花びらながれ をみなごに 花びらながれ をみなごしめやかに 語らいひあゆみ うららかの跫音 空にながれ をりふしに 瞳をあげて  翳りなき み寺の春をすぎゆくなり み寺の甍 みどりにうるほい 廂々に 風鐸のすがた しづかなれば ひとりなる わが身の影を あゆまする甃(いし)の上」

先生の朗読のゆったりとした旋律は強く私の心を振るわせ耳に残り、情景が流れるように浮かんで来たんだ。平成7年に名古屋で若松高校の同窓会中部支部会が催された時、当時の先生をゲストとして何人か来て戴いた事がある。その中に岡野先生が来られる事を事前に知ったので、この「甃のうへ」の詩をワードで打ち出し当日先生に朗読をお願いしたところ快く引き受けて下さり、40年振りの授業が再開されたのである。

昔と変わらぬあの美しい旋律が流れ始めると、一瞬の内に私は昔の私に戻り、古ぼけた校舎のガラス越しに穏やかな日差しを浴びた礫陵園が浮かび、何と目の前には昔のままの可愛い妻がいるではないか・・・。 

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こんな写真ばかりで申し訳ない。青春映画の1シーンと思い我慢願いたし。若高の礫陵園にて長兄撮影。
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私の生涯日誌 その24

2018年  12日 11:35
2015.12.24の記事を転載
 
 高校生活が始まった。修多羅の自宅から学校迄結構遠かったが、学校の正門は両脇が桜並木の30m位の坂道になっており、2006年に若松がNHKの「フルスイングと言う、高橋克実が高校の先生になるドラマの舞台となって、若松高校のこの正門が映し出された時は感激したな。

 所が又もや入学式の時の、恐らく桜の花びらが散っていたであろう感激の場の記憶が無い、もしかして近道の裏門{昔の女学校の門:女学校が無くなり昔の中学(今の高校)と隣り合わせだった為、校舎も高校で使用した}から入ったのかも知れないな。小学生じゃないんだから、感激なんか必要ないんだ。

 1年は7組まであり私は7組、担任は通称ドンキーの山村先生。早苗は1組で赤司先生、後のクラス担任は、高校になると持ち上がりでは無く、クラスも担任も変わってしまう為記憶がぼやけてしまうが、他に岡野先生、森元先生、向井先生がどのクラスかの担任だったと思う。

 クラスは男女半々位だったが、入って直ぐの思い出として、修多羅から2中に通う時に隣の3中に通う生意気そうな奴が居たが、良く見るとそいつが同じ組に居たんだ。名前は上野朗、家が私の家から少し登った寺の近くに住んでいた。だから通学で良く会ってたんだ。中々のハンサムで直ぐに友達になり、現在も賀状のやり取りは行っている。

 今一つ、席に着いた時に横を向くと数列向こうの席に物凄い美人が居る。勿論2中出身では無い。所が教壇に上がった時に捜したら居ないんだ、目の錯覚だったかと席に戻るとちゃんと居るんだ。結論は横顔美人だったんだな、正面から見るとエラが張ったような大きな顔で本当に判らなかった。

 失礼に当たるから名前は言わないが美人で無くて良かったかも、中学の時の繰り返しに為らなくて済んだからね。何しろ少し浮気性の所があるから気をつけよう。

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母と記念撮影            私はセーラー服が好きだったので学校以外はセーラー服で。

私の生涯日誌 その23

2018年  10日 08:25
2015.12.23の記事を転載

 いよいよ昭和29年3月若松市立第二中学校を卒業する。自宅は山手通りから修多羅に変り遠くなったが、充実した3年間だった。

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中学時代はクラス単位では無く全体写真だった。5組は右サイドだった。

2015_1218中学0003 抜粋男子右上段。
2015_1218中学0004 抜粋女子右中段。

 ここで家族の状況と最初は弘介兄を主体に述べて行きたい。昭和29年末の年齢は父53歳、母48歳、姉27歳、長兄23歳、次兄19歳、私は16歳である。父は三井銀行に在職中、姉は結婚後村上姓となり長男1人、長兄は福岡商科大学3年、次兄は九州大学経済1年、私は若松高校1年である。長兄の事は既述の如く高校卒業後一旦銀行に就職するも一念発起退職して大学に進んだものである。

 次兄の弘介は兄弟4人の中で血液型が一人だけ父と同じB型、性格は本人も自覚しているが他人の事には余り頓着しない自己中心タイプである。
1例として子供の時に食べ物が少ない中で、各人に分けてないひと皿に盛った食べ物を、悪気は無く、数にも関係なく、自分の好きなだけ食べる。中学時代に先生に怒られて数人が廊下に座らされている時でも、その時間が勿体無いと平気で勉強道具を持って来てその場で勉強し、先生も呆れてしまうと言う次第。

 頭脳的には閃き型では無く典型的な努力型である。私の知っている勉強方法は、歩きながら英単語の辞書を繰りながら覚えて行き覚えたら破り捨てる、従って常に成績はトップである。小学校時代の記事にも書いたけれど運動神経は抜群で走るのも早かったな。私が偉そうに通告表とか表彰状とかひけらかすと、みっともないから止めろと言う謙虚な所もある。勿論兄も市長賞は貰っている。

 こんな事もあった。父は囲碁が好きで長兄とは既に父と対局していたが、ある日弘介兄と私が同時に父より教えを受けた。暫くして二人で対局したが、私が勝ったんだ。私は閃めき型だったので最初の取り付きが早かったんだな。兄は悔しがってそれから相当に努力した。 

 様子を見ていると結構強くなっているのが判る頃、私に挑戦して来たんだ。その頃私は負けず嫌いが努力に向かわず、囲碁を放棄していたのだ。勝ったままにしておきたかったから当然受けて立ちませんねぇ。

 かなりしつこく挑戦してきたけれど、結局勝負をしたのはかなり年を取ってからだったと思う。当然花を持たせましたよ。長兄も弘介兄もそれから結構強くなり素人何段かの腕前になっているようだが、努力型の弘介兄も閃めき型の長兄には分が悪いようだ。だが現在も時々烏鷺を楽しんでいると聞いている。

 これからはこのように家族の事も時々書き添えて行きたいと考えている。

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恒例の家族写真。昭和29年私が高校1年の秋だったと思う。



○ 皇室の秋篠宮発言が物議を醸している。大嘗祭の経費を宮廷費と言う公費で賄わず内延会計で行うべきだとの異議である。この問題が起こる迄、私は現天皇の即位に際し行われた大嘗祭の費用が22億5千万円を要し、皇室の宮廷費名目の公費で賄われた事を不勉強で初めて知った。公費と言うのは国民の血税である。

 この22億5千万円の内訳に大嘗祭を行う大嘗宮の設営に14億5千万円余り掛り、しかも大嘗祭終了後に即日取り壊し撤去したと言う。その日の為だけに国民の血税を何の疑問も持たず政府が消費した訳である。確かに宮廷費の予算の中であったとしても、これは何も皇室から要望があった訳ではない。

 政府は来年の天皇陛下の退位と皇太子の天皇即位に関連する儀式を前回同様皇室行事として行い、費用は宮廷費から支出する事を決定した。宮廷費は儀式、国賓・公賓の接遇、行幸啓、外国ご訪問など皇室の公的ご活動等に必要な経費、皇居等の施設の整備に必要な経費等で平成30年度の予算は91億強である。

 大嘗祭は宗教的色彩が濃く、政教分離を定める日本国憲法の下では、本来、国として行う事は許されないものである。確かに天皇・皇族による政治的な発言自体は象徴天皇制とは相容れないものとして、今回の秋篠宮発言には多少の問題はあるにしても、公式な申し入れでも無く、内容的にも内延費(今年度予算3億2400万円)で賄ったらどうかとの節約提言であり、過去の無駄遣いを諭したものと受け止めて良いのではないだろうか。

 確かに政府が決めた事とは言え、予算があるから消化せねばとの無駄を承知の役所的考え方は間違いではないのかと、国民が異議を申し立てる必要があったのではないだろうか。前回22億強で、今回何億の計画か不明であるが、私だけではなくこの様な使われ方をしていたのだと、案外知らない国民が多かったのではないだろうか。

 国として色々な資金不足で消費税も上げる中、形式的な存在で何の役にも立っていない参議院の廃止とか、節約を主体とした国の経済立て直しを図るべきではないのだろうか。前回の大嘗祭でその為だけの祭場を造って壊して14億・・・貧しい私には震えの来る金額である。

 私は現天皇は嫌いではない、むしろ皇后と懸命に職務を果たしているのを良くやってるなと思っている。これも美智子妃の支えがあってこそだと思っている。次期天皇の現皇太子は真偽は兎も角アル中と聞いた事があるし、皇太子妃は精神的に病弱・・果たして政務を全うする事が可能なのかと以前ブログに、皇位継承権を秋篠宮に譲ったらどうかと書いた事がある。

 色々と難しい問題もあるだろうが、象徴天皇として夫婦揃っての行事も多く、何も長男が継承しなければならない決まりも無い。皇太子がこの様にしてしまったのか血統なのか、今後さらに激務となった時の雅子妃が不安でならない。
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 久しぶりに妻のちぎり絵:ピンク色のシンピジューム

私の生涯日誌 その22

2018年  06日 08:35
2015.12.22の記事を転載
 
  そろそろ卒業が近づいた。ある日担当の新崎先生に職員室に呼ばれ個別の話があった。
 「城○君、卒業に当たって市長からの市長賞をクラスから1名選出する事になっている。私は君を指名したいと思っているが、一つ気になっている事がある。菊川さんとの関係だけど、どうなっているの」 「結婚するつもりです」 「えっ!もうそんな関係なの」 「いえ今は何もありませんが将来は結婚するつもりです」・・・「ふぅ~ん」

 結果として市長賞は私が貰った。勉強で競り合っていた藤君はこれで発奮して、先の事ながら東京大学に現役合格し日本IBMに入社した。私は東大より格下の山口大学経済学部を卒学後新日鉄系の日鐵商事に勤めたが、最終的にはどちらがどうだったとは言えないけれど、彼は平成22年に亡くなり、長寿ランキングでも私が勝ったんだな。

 その後のクラス会で先生にお会いする度、「あの時は冗談位にしか思っていなかったけれど、本当だったんだねぇ」と早苗と結婚には驚いていたが「素晴らしい事、城○君を今一度見直したね」とも言って貰えたんだ。

 優等賞はクラスで私以外に藤、日高、大庭、菊川、勝浦の6名。小学時の彼女林克子は私に宣言した通り4組で市長賞を獲得した。卒業前に当然高校入試があり、ほぼ全員が若松で唯一の若松高校を受験したが、予想に反して親友の椿田が不合格となり、私立の西南高校に去っていった。

早苗とは迫田の自宅まで訪問する間柄になっていた。親父さんは国鉄若松機関区勤務、戦時中は華北交通に勤め中国に住んでいたが終戦の20年12月に引き上げ、親戚の居る折尾に暫く居て勤めの関係で若松に移住した。兄一人、姉一人で二人は私の長兄と次兄と同じ年なのも変なめぐり合わせだ。母親はS22年逝去、以降姉と二人で炊事洗濯を受持つ暮らし、兄は2年早く帰国し折尾で東筑に入学していたが中退して若松市役所に勤務するも、結核にかかり門司で療養。

私が訪問した頃は右肺摘出手術後の自宅療養2年目位だった。 家庭は片親だったが家族は円満で彼女も素直に育っており私は無口な親父さんに気持ちよく受け入れられたんだ。

2015_1222賞状0002  3年通告表1、2、3学期と学年
2015_1222賞状0009 市長賞
2015_1222迫田0011 早苗宅姉と。

徒然日誌 妖刀・村正展

2018年  04日 08:50
○ 先日桑名博物館で開催の「村正Ⅱ」展示会に妻と訪れた。Ⅱの意味(後で確認したら2回目だった)がその時解らなかったが、妖刀伝説の村正である事には間違いないだろうと三重県まで車で出かけたんだ。

 村正の初代は1501年伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工千子(せんご)村正であり村正はその名跡、その作になる日本刀の名である。同銘で6代以上あるが1668年迄続き、右衛門尉村正、藤原朝臣村正が最大の名工である。正宗が天下の名刀(芸術品)なら、村正は天下の業物(実戦刀)と言われその斬味壮絶無比と名高い。実際は短刀(一尺以下)や寸延短刀(短刀様式の一尺以上の刀)をより多く打ったし槍は戦国時代随一の絶品であった。

 ただ村正と言うと江戸時代妖刀のイメージが強い。家康祖父清康、父広忠、家康自身、息子信康といった徳川家康の関係者が殺害されたり怪我をした際の刀や槍が全て村正であった事から不吉とみなされた為、銘の村を削ったり村忠に改めたものもあったが、幕末には西郷隆盛らに愛用され倒幕運動の象徴ともされたのである。

 尚会場には各種の彫刻された桑名鍔や小柄、目貫、縁頭等の展示もあった。不勉強ながら私は小柄が長方形とは知らなかったんだ。会場は撮影禁止の為写真集を一冊購入。今更ながら美しい刀を見ていると、人を殺傷する道具とは思えない不思議な魅力がある芸術品としか見えなかったな。

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銘に「妙法蓮華経」と信仰していた日蓮の没日十月十三日とある。鍋信は所持者鍋島信濃守勝茂の名。国指定重要文化財。
村正 徳川美術館 村正 三重護国神社
村正:徳川美術館蔵               村正:三重護国神社奉納
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勢州桑名藤原朝臣村正作             村正・・・槍
  a href="http://esunojo.blog.fc2.com/img/2018_1202ocn0005.jpg/" target="_blank">2018_1202ocn0005.jpg 2018_1202ocn0012.jpg
短刀:銘 村正              剣:銘 勢州桑名藤原朝臣村正作

私の生涯日誌 その21

2018年  03日 05:50
2015.12.21の記事を転載

 S28年9月23日出発の修学旅行に向け各クラスで担当地域の栞を作成し5クラス分纏めての旅行冊子を作りあげた。

 23日戸畑駅発⇒車中泊⇒24日朝岡山駅で宇野線乗換⇒宇野駅⇒船(鷲羽丸)70分⇒高松⇒バス20分⇒屋島⇒バス30分⇒栗林公園⇒バス60分⇒琴平宿備前屋 25日早朝金比羅山(希望者) 琴平9時発⇒多度津経由⇒松山着15時:城山登山・・高浜発21時⇒船中泊⇒26日門司着8時半⇒若松で解散。 3泊4日(車中、琴平宿、船中泊)の行程が以上の予定であった。 以下特記事項。

23日夜門司駅で男性の轢死体を見る。手足、頭無し、最先悪し。 ○岡山に着く前に車中で力士北の洋に会う(本人は芋の洋と名のる)サインの代わりに短歌みたいなのを書いてくれたが今でも読めない。車中では殆ど眠れなかった。

24日宿に着くまで一日中雨、どうも台風が来つつあるらしい。高松に渡る船中でも景色はモヤがかかり、屋島に登るケーブルカーからも頂上からも何も見えない。雨の中の栗林公園、規模の大きさに驚き池の鯉の大きさにも驚かされた。疲れて宿迄のバスで眠ったが,宿の備前屋に着いてほっと一息。夜は買物に出たが依然雨が続いており明日が不安。

25日朝5時に起きて金比羅お参りに出発、依然雨は強く、傘をさして裸足で石段を登る。1368段でお宮に着いたが小さなお宮で余り感激も無く、神殿の写真をバックに記念写真。観光地としての写真はこれだけだった。

○結論から言うと、その後台風接近の情報から先生方の苦渋の決断は、松山、道後温泉から船に乗っての船中泊を中止して、来た道を戻る事となった。所が皮肉にも高松から宇野への船中では晴れとなったんだ。

結局25日の夜に若松に帰り着き、集まった父兄に対し今川先生が泣いてお詫びをした記憶が鮮明に残っている。修学旅行の思い出が本当に記憶に残らなかったのは残念だった。やはり最初に轢死体を見たのがまずかったんだな。

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背景が写真で下駄履きはイカさないねぇ

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予定変更した帰りの船では良く晴れたんだ。ただ写真はこれだけだから寂しいね。

私の生涯日誌 その20

2018年  30日 10:05
2015.12.19日の記事を転載
3年生時の体格、身長:162.1cm 体重:50.2kg 当時はこれで結構大きい方だった。

S28年6月8日中学3年の時、10年間暮らした山手の家から修多羅の銀行社宅に引越しをした。雨の中をトラックに積み込む。6歳からの10年間の思い出は、柱に書き込んだ背の高さの記録迄が別れ難い思いにさせた。

その時3匹の猫を飼っており三毛の親:名前はトン、子供のチイ、弟のチョコ。雨でもあったしトラックの一番底に箱に入れてカバーを掛けて新しい家に運んだ。引越しからひと月位しての大掃除の夜からトンだけが居なくなったんだ。
結局戻って来ないまま忘れかけた8月中旬に、元の家の近所の方から「お宅の猫と良く似た猫がいる」との情報があって兄が行ってみると、まさしく見る影もなく痩せ衰えたトンだった。

そのまま連れて戻ったが、自分の子供が近寄っても牙を剥く様になっており、結局2日後に又居なくなってしまった。猫は飼い主より家に付くと言われているのは本当だったのだ。10km近い距離をトラックの底からどのようにして覚えていたのだろう。

3年の夏休みの自由研究は日高君と海の魚を自作の水槽で観察しようと決めた。役割分担で、魚の捕獲は彼が行い私は水槽を作る。結果は直ぐに頓挫した。
水槽の枠を作り硝子を嵌め込み、当時はパテが無かったので水漏れ防止にセメントで周囲を固めた。結果はセメントが乾くと硝子が割れるんだ、理屈も判らず馬鹿な私は二度も挑戦して失敗、彼が魚を取りに行く前にこの企画は挫折した。

結局私は夏休みの工作として、急遽小さな額縁を作り針金で風景を作って色を塗って1日で作り上げ提出したら、見事佳作に入選したんだ。発想が良いと評価されたのだろう。

秋の運動会の恒例のクラス対抗リレーは、しぶとく食い下がってきた1組を突き放し見事2連覇、騎馬戦では体格の良い村田と椿田と私が大将の馬となり連勝したような記憶があるが、馬だったから良く覚えていないのが本当だ。

どのようなきっかけで文通が始まったか覚えていないが、アメリカの中学生エレンさんと言う女の子と国際郵便のやり取りを行っていた。ちゃんと自分で英語で文章を書き、送られて来た手紙は辞書を片手に翻訳していたんだ。安いものだったが、日本的な扇子とか人形とか送った記憶がある。ある日写真が送られて来たが、ひと目見た時母親と写っていると思ったんだが、母親と思ったのが本人で妹と一緒に写った写真だった。いつ文通が終わったのかの記憶は無い。

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エレンさんと妹                    椿田君と

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この中の3人とは今年の同窓会で会いました。今毎日顔を合わせている娘もいますね。