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私の生涯日誌 その75

2019年  27日 08:32
2016.3.15の記事を転載

 家庭に於いても辛い出来事があった。当時小学6年の長男が右目を怪我してしまったんだ。ある日用事で外出から帰ったら長男がタオルで目を冷やしており、調べると右目が白濁してしまっている。訳を聞くと友達と遊んでいて、友達が投げた「セイタカアワダチソウ」の枯れて折れた細いトゲの部分が目に刺さったと言う。

 その日は日曜だったので翌月曜日に福岡の有名な眼科に連れて行ったが、既に眼球が白濁してしまっている為、手術で水晶体を除去する以外に無いとの事だった。入院しての手術は無事に終わったが、水晶体が無くなった為に視力が大幅に低下、更には本人の視力が定まらない為眼球の黒目が自然と右側に寄ってしまうようになった。その後コンタクトの矯正で多少は修正されてきたが正常に戻す事は出来なかった。

 担任の先生は何度も見舞いに来てくれたが、当の友達の親は全くの連絡も無いので、先生を通じて家に来て貰う事とした。暫くして訪ねて来た両親に私が告げた事は「この件は子供同士の遊びの中で起きた事、確かに片目は元に戻らないが、我々はご両親に責任をとって貰おうとは全く考えていない。聞く所では先生に我々の考えを聞かれているようだが、そんな事より直ぐに謝罪の挨拶に来られるのが筋であり常識ではないのか」 とだけ伝え、治療費だけでもと言われるのも辞退した。

 後で先生から両親は補償の事ばかり心配していたと聞き、情けないと思ったがそれの方が常識的な考え方なのかな。仲の良い友達同士、悪気で起こした事故でも無く、幸いにも目だけで済んだ事は不幸中の幸い、補償、弁償の事ばかりを考えて、まず謝罪すると言う最も大切な行動が出来無なかったのは情けないし残念だったね。その後先生からは,もめる事もなくこれで終わり大変有難かったと言われ、今も先生とは賀状のやり取りを続けているよ。

 その後占いの方の話で、目に事故が起こったのは、私が庭に池を、お祓いもせずに掘った為だそうだ。では埋めますと言ったら、掘ってしまった池を埋めるのは、逆に悪い事だからそのままにとも言われた。確かに昔から池を掘ると目に祟ると言うような事言われていたな、私の責任だったか。

  随分後の話だが、二男が中学の時学校で喧嘩をし、倒れた相手の顔面を足で蹴って怪我をさせたとの連絡があり、帰って来た息子を連れて直ぐに相手の家に行き状態を聞き謝罪をした。幸い大した怪我も無く反って恐縮されたが、何で喧嘩になったのかは兎も角、足で顔を蹴る事を厳しく注意をした事は覚えている。

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長男目の手術で入院。 辛い事だったがこれだけですんだ事は幸いだった。高校生になった時硬式野球部で外野を守っていたが、球が見え難いだろうにと心配すると共に、頑張っている姿が嬉しかったね。
○ 実刑判決を受けながら逃走した小林容疑者が捕えられた。一応一件落着であるが数々の問題を残した。

 一つは裁判所がこの様な男の保釈を簡単に決めた事である。保釈条件の一つに容疑者が逃げる可能性が無いと判断された場合があるが、今回の様な「とん刑者」(実刑が確定し刑務所に収容される前に逃げた者)は今迄26人もいると言う。

 保釈には保釈金を積む必要があるが今回は600万円だったと聞く。本来保釈金は刑がどの様に確定されても全額返却されるが、今回の様に保釈条件を冒すと返却されないと聞く。裁判所は保釈金を抑えているのだから逃げるはずはないと安易に考えているのか、過去にこれほど「とん刑者」がいても、何ら対策が考えられていないのは何故なんだ。。

 二つ目は、今回横浜地検が2月に実刑確定の容疑者に電話や書類で出頭を促すも、言を左右して応じない事に対しての対応の遅さであり、収容に行くに当たり検察事務官だけで行くケースが多く、今回もその為に逃走されている。収容方法に統一的マニュアルも無く犯罪者に対しての無防備な姿勢が、一般市民への危険な状況を引き起こした事をどう考えているのか。

 三つ目は、事件発生後の警察の対応の遅さである。今回の容疑者が刃物を振り回して逃走すれば、市民への危険が広がるのは明白であり、逃走した時の車も明確である以上は即刻警察内の連絡手配がされるべきであり、高速に乗った事も明白であるならば各降り口に検問所を設け、簡単に捕えられると考えるのが普通である。ただ今回は地検からの逃走の連絡が大分遅れたとも聞くが、その後の警察の対処の仕方も褒められたものでは無かったようだ。


 この1~3の不手際の連続で、凶悪犯を市中に泳がせてしまった事に憤りを感じる。特に2の地検が収容に赴く際は、拳銃携帯の警官を同行し、凶器を持って抵抗する場合は射殺の許可位与えておくべきである。今回は市民に何ら危害が及ばなかったが、日本はいつも危険に対する考えが甘すぎる、なにかが起こると責任者が深々と頭を下げながら二度と起こらぬよう対処しますと言うが・・遅いんだよ。

 この狭い日本で逃げおおせると考えること自体、この馬鹿考えが甘いが、確定実刑以外に公務執行妨害でも最高3年、家宅捜査で判明した覚せい剤の使用で最高10年は上乗せされるだろうし、保釈金は返らないし、馬鹿は死ななきゃ治らないけど、射殺されなくて良かったと有難く思えよ・・な。

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ちぎり絵

私の生涯日誌 その74

2019年  23日 08:30
2016.3.14の記事を転載

 記憶には楽しかった、嬉しかった事より辛い記憶の方が多い。心の痛手は簡単には消えて無くならないからなのだろう。

 私の部下のF君がある会社からの引き合いにミス発注をしてしまい、納入した後先方からの指摘で気づくも、報告も上げられず処分に困ってブローカーに転売してしまったんだ。彼は出口組の件で戸田課長や私が支店長とやりあっているのを見て、自分のミスの報告を躊躇してしまったらしい。彼は高卒入社で未だ4年目、そういう状況を作っていた事は悪かったが、彼も弱い人間だったんだ。

 そして転売して得た現金をいつの間にか使い込んでしまった。売上伝票は間違った相手先に上げてしまっており、そことの取引が継続している間は、回収した代金の引当を古い伝票から処理していたので気付かれずにいたが、暫く取引が途切れた時に回収不足で経理から指摘され、調査している段階で当の本人が行方不明となった。

 金額は売掛金として100万円弱だったかな。4日程経過したある日の夜、髪を切って丸坊主になった彼が、春日の我が家を訪ねて来たんだ。色々と話は聞いたが打つ手も思いつかぬまま、彼を我が家に泊め翌日会社に連れて行ったが、そのまま支店長とだけの事情聴取となった。

 その後支店長の出した結論は、F君に直ぐ退職願いを出すように指示した事、退職金は売掛金に充当する為会社に差し出す事、彼が持っている会社の株券1000株も同様に会社に提出する事(実はこの株券は彼の名義だったが、会社から、社員で希望者する者に対し1000株づつ額面金額で譲る話があった時に、彼の権利を使って私が購入したものだった:違反してたから言い出せなかったねぇ) と言う事で有無を言わせず簡単に処理してしまった。

 私は彼を救う事が出来なかった。出口組の件もあり、これ以上支店長に話す事が出来なかったんだ。彼は国元に帰りその後の消息も途絶えてしまった。この件は確かに許されるべき行為ではないが、何ら情状酌量の余地も考慮せず早く処理してしまおうとの支店長の考えが見え見えで、最終処理をどのようにしたのかも、その時は我々には知らされないままだった。

 この事件も間接的ながら支店長の日頃の態度が引き起こした事だと言っても、過言ではないと思っている。

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彼の写真を載せる訳にはいかないだろう。 社内旅行の安芸の宮島。

私の生涯日誌 その73

2019年  21日 08:30
2016.03.12の記事を転載

 「今だったら約60万円の損失で済むので取り敢えず仕入れ契約をしておきたい」「前に話した通り赤字伝票には絶対判は押さない」戸田課長と二人で懇懇と説明するも全く受け付けず。結局これで仕入れタイミングを失ってしまった。

 今までの憂さを晴らすように丸棒相場は恐ろしい勢いで値上がりして行く。事実1日に1万円のペースと感じられる位の上がり幅で手の打ち様がない。出口組には取り敢えず赤字の出ない500トン仕入れ枠から出荷して行った。メーカーとしても特別契約枠だから早く出荷してくれとの依頼もあっていた為だ。

 戸田課長とも相談し、300トンの枠に入った場合、伝票が回らなければ仕入れの支払いが出来なくなる為、姑息な手段かもしれないが、出口組に相談して取り敢えずは現在の仕入れ価格のままで発伝させて貰い、支払いも伝票通りの金額で支払って貰う事で交渉を進める事の了解を得、差額は暫く借りとする交渉を私が進める事とした。

  出口組の営業部長とは常日頃から親しく接していた為、何とか納得して貰う事が出来た。出荷し請求書を出す度に、借り金額を別紙に集計していく事で明確を期す事としたが、怖いように借入金が増えて行く。結局丸棒相場はトン当たり10万円を越えた辺りで一段落ついたが、300トンが消化された段階での借入金総額は1500万円位迄に膨らんでいた。2万円の売り契約が仕入れ10万円となるとトン8万円のマイナスとなるから当然である。

  単純に300トン×80,000円では2,400万円の赤字になるのだが、途中の仕入れでは、東海鋼業の楢原所長始め香月課長、神元、迎、熊谷各氏の協力を得て、可能な限り安い仕入れ価格で契約して貰った為、多少赤字は減ったにしても、これだけの借財は残った訳である。日頃の付き合いのお蔭でここまで抑えたがこれが限度だった。

 最終的にはかなりの期間、返済を待って貰い、新規契約の価格を下げる事等の手段を講じて借金を減らしては行ったが、大阪鋼材との合併話が噂で広がる中で、到頭出口組からの正式返済依頼があり、支店長に全てを説明した上で借財を精算しこの狂乱物価騒ぎにケリをつけた。

 最後も簡単な話で終わらずに、支店長と大喧嘩をした戸田課長は結局退職を決意し、誠に残念な結果となってしまった。確かに最初にきちんと話を聞いてくれてさえいれば被害も少なく、逆にこの絶好の好機に他の物件取引で大きな利益も望めたはずであったが、出口組の処理に手がかかり過ぎて対応出来なかった事も、優秀営業マンを自負する自分としては誠に残念な事であった。

 この事で戸田課長と言う有能な人材を失った事も痛く、こんな支店長を着任させた社長は見る目が無いのかと、私の社長に対する見方がこの一件から変わったのも事実だった。

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仕事は仕事、旅行は旅行。支店長の頭を殴る機会を捜し後ろに立ったのだけどな。  えぇ~お笑いを一席「大変な相場になりましてぇ・今少し支店長が蚤金でなけりゃ・・・」」
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斎藤相談役も今はのんびり炭鉱節を踊るも、私は八幡支店時代にはその弱気に泣かされたね。  サイクリングで家族サービスも。忙しい忙しい。

私の生涯日誌 その72

2019年  19日 11:30
2016.03.11の記事を転載

 松尾支店長の風貌はデブっとした体格にお世辞にもハンサムとは言えない顔立ち、しかしながら見た目には堂々とした体格で押しが効きそうな感じであった。所が本社から流れてきたあだ名はボディライオンハートラビット」これは説明せずともお判りの事と思う。これから暫くこの性格で泣かされる事になる。

 翌年の4月に支店長のと言うのが女子社員として入社して来た。おじさんを鼻にかけてすこぶる生意気な娘だったが、この子におべっかを使いだしたのが私の同期の八尋君、自分の車で彼女を送り迎えするようになってね、当然支店長のお眼鏡にかなう存在となった。石田支店長時代仕事上の彼の評価は余り良く無く、当時私は課長代理の役職に付いていたが彼は未だ平のままだった。

 ある日聞こえて来た噂が「八尋を昇格させる迄〇〇(私の事)は据え置きにする」と言う事だったんだ。当時私は九州小棒懇談会(東海鋼業の社長を会長とする九州の丸棒メーカー、取扱い商社で構成される丸鋼の規制委員会)の出席メンバーで、良く開催された親睦の飲み会とかゴルフ会にはこんな事が好きな支店長を連れ出す事を忘れず、仕事面ではきっちりやっていたんだが、姪の面倒なんかチャンチャラ可笑しくて出来る訳がないだろう。

 松尾支店長になった頃から丸棒相場がじわじわと回復して来てね、雲行きが怪しくなって来た。出口組との契約トン数は未だ200トン位しか消化されていず、拙い事になったらと戸田課長と一緒に支店長に経緯を報告に行ったが「俺はそんな事は引き継いでないから知らん」「石田支店長が亡くなられたから、今当時の経緯を説明している」「聞きたくない赤字伝票には一切認め印は押さない」との拒否反応。

 何は兎も角打つ手は早くと東海鋼業楢原所長(実は所長は九大卒で私の弘介兄の先輩、若松の家にも遊びに来ており私も当時から良く知っていた)に膝詰め交渉、やっと500トンは損の出ない2万円/トンで仕入れ契約が出来たが、残り300トンは2,000円/トンアップで無いと無理だとの結論となった。

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九州小棒懇談会親睦ゴルフ 前列右から3番目小生、4番目支店長  旅館で化粧回し借りて相撲甚句
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会社の旅行でコーラス 支店長、小生、猪熊先輩   宴会では常に主役

私の生涯日誌 その71

2019年  17日 09:50
2016.03.10の記事を転載

  昭和47年に沖縄の本土復帰が為された。パスポートもいらなくなったので、翌48年に当時の日鐵金属工業の二人と沖縄に出張に行った。1泊2日の出張だったので着いた当日に仕事(何の仕事だったか忘却)を済ませ、翌日タクシーを借り切って観光巡り。当時の沖縄の道路は未だ米国並で右側車線走行だったな。丁度夏の甲子園高校野球決勝戦で広島商業が優勝したんだった。

 まず首里の門で記念撮影、丁度観光案内の沖縄衣装を纏った女性が居たが、顔は沖縄独特の彫りの深い美人さんだったが、足が太くて真っ黒でね、何か釣り合わなかったな、そう言えば肌がギトギトした感じだったが、朝の味噌汁にも油が浮いていたな、日頃暑さ対策で油物を沢山摂るらしい。

 首里の門から健児の塔、福岡県慰霊の塔、多くの女性が投身自殺をした北端、風葬の場所、ひめゆりの塔等殆ど全ての観光地を回った。恐らくもう来れないのじゃないかと思ったのでね。

 丸棒の相場は更に悪化した、丁度その時に出口組から運命の引き合いがあったんだ。物件対応では無く枠取りの異型丸鋼ベース1000t、出口組加工場持込指値2万円/tだった。当時の相場は19,000円前後、この引き合いを石田支店長、戸田課長と3人でじっくり話し合った。

 結論は3人共相場は未だ下がる可能性が高い、受けてみようと言う事になった。当時は会社として空受けは禁止事項では無く、契約そのものは違反行為では無かった。単純な話ではあったがこれで儲けて社内旅行はハワイでも行こうかと言う軽口も出た位であった。

  不幸な出来事はそれから半年もしない間に起こった。石田支店長がガンで入院しあっと言う間に亡くなった事だ。その後釜として赴任して来たのが最悪の松尾支店長だった。

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首里の門                    福岡県慰霊の塔前

私の生涯日誌 その70

2019年  15日 10:05
2016.03.09の記事を転載

 景気の好不況に関係なく、私は昭和49年、福岡市の隣の市の春日市に建売一戸建ての家を購入した。未だこれから開けるだろうと思われる場所で何よりの決め手は会社の山崎君の家が近くにあった事である。

 山崎君は昔奥さんを事故で亡くし、最近安宅産業に勤めていた人と再婚したばかりだ。私も入社して12年目、何となくもう転勤は無いだろうとの勝手な思い込みで一国一城の主となったが、全て銀行借入で余り威張れたものではなかった。

 すぐ近くに「春日ローンテニスクラブ」が出来て会員募集があってたので、山崎君と誘い合わせて入会した。入会金は30万円、本格的なグラス(ローン)コートが3面、室内コートも2面あり樹脂面のコートも10面位あって結構立派なテニスクラブだった。
 近くに住まいのある新日鐵の女子社員も一緒になって結構頑張ったけれど、ゴルフと一緒で教わるのが嫌いな為これまた我流、これでは上手にはならないけれど、今で言う松岡スタイル、格好いいよね。

 石田支店長の情報で親戚の城山砕石と言う会社がショベルローダーを買いたいとの事、昔取った杵柄早速に小松製作所の製品を割賦販売で契約したが、1年も経たない内に割賦手形が不渡りとなった。

 昔の田舎の銀行は取引業者に温情的な所があって、決済が出来なくても暫く手形を銀行に留めておく事があり、酷い時は10日以上も報告が上がって来ない時がある。今回も大分遅くなって本社から連絡が入り、採石場まで飛んで行くと「やっと来たか、今無いんで暫く待てないか」と他人事みたいな社長の態度。

 帰社して支店長に報告すると直ぐに自分が飛んで行ってね「俺に恥をかかす気か」と即、決済をさせた事もあった。支店長の情報だし親戚なんだから、支店長が保証人と一緒だと私も思っていたよ。

 書き忘れていた友泉団地での思い出に、二階の窓から小便と言うのがあった。かなり酔って帰って寝て夢を見たんだと思うよ。玄関の上の3畳が私の寝室、寝惚けて窓を開けて小便したんだ。している途中で目が覚めた気はする。だけど気持ちが良くて放物線をボケっと見ていた。翌朝玄関のドアを開けたら、ドアの前の三和土に丸く濡れた所があった。前の家の奴、見たかな。だけど競泳の夢でなくて良かったな。飛び来むところだった。

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新居の門の前で。右手駐車場と奥は庭。庭に池を掘って不幸な事があった。 正月のお膳と床の間飾り。   

私の生涯日誌 その69

2019年  13日 09:25
2016.03.08の記事を転載

 丸喜産業㈱は志免に巨大な倉庫を有し福岡県内は勿論の事、九州各県、山口県内のゼネコン等に広範囲に販売先を有する丸棒専門特約店であった。仕入先としては全ての商社との取引があり、社長の道楽は歌舞伎を自ら演ずる事で、年に一度大きな舞台を借り切って演じる公演(娘道成寺等)には各取引先がこぞって出席する、これが同社との取引を円滑に行う為の条件みたいなものであった。

 我社の同社との主取引は西九州製鋼の16mmから25mm迄の普通鉄筋丸棒、月に3000t以上は販売していたな。交渉の担当窓口は寺岡専務、そうだゴルフ場の筆おろしに玄海ゴルフクラブに連れて行って貰ったんだ。

 1番ホールでの最初のティショットをティグランドの直ぐ左の藪の中に打ち込んだのを覚えている。長いゴルフ人生のゴルフ場での第一打だった。結局この日は走り回って27ホールをラウンドしたが全て70台だったのも覚えている。

 これ以来結構ゴルフに熱中し色々なゴルフ場に行った、玄海以外では生の松原GC、久山CC、福岡国際CC、九州CC春日原、肥後CC、太宰府GCの他に名門の福岡CC和白、門司GC、若松GC、小倉CC、古賀GC、九州志摩CC芥屋、フェニックスCC等にも行っていた。一度社内コンペで優勝して大きな持ち回りのカップをもらったんだがゴルフ場もスコアも覚えていない。

 国内の景気変動は昭和40年から45年に至るいざなぎ景気が下降線をたどり始め46年のニクソンショック、固定相場制がこの時期変動相場制になって輸出に打撃を生じ48年から50年に至る第一次石油危機即ちオイルショックによる狂乱物価総動が起こった年である。1975年即ち昭和50年には不慣れな石油精製ビジネスに手を出した上に下火の繊維部門の拡大を図った10商社中の最下位であった安宅産業がその失敗により昭和52年伊藤忠商事に吸収合併されたのである。

 スクラップは値下がりし、丸棒相場も価格が下がる一方で大変な時代になった。

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ゴルフ初優勝。  二男が西日本新聞の「ちびっこ」欄に掲載された写真、備考欄に住所指名、両親名、会社名等全部オープン。今だったら怖い事かも。

徒然日誌 同期会山口訪問 その2

2019年  11日 07:00
○ 最後の同期会 10期卒の177名中出席したのは29名、既に鬼籍に入った者は47名、欠席の59名の回答の中で35名が体調不良、出席者の中でも今回が最後と言う事で無理をした者もいた様だ。

 記念撮影の後、丸テーブルの椅子席の5テーブルに6人づつ抽選で席に着く。物故者への黙祷の後、世話人代表の古賀君の乾杯音頭で宴会が始まった。ビールは一杯だけですぐに焼酎のロックへ、余り動くのも辛いのでじっくり腰を据えて飲んでしまった。カメラを部屋に忘れてきてしまったので肝心の宴会の様子の写真も無く、その後外に出てバスで向かったライトアップされた瑠璃光寺の五重の塔も、一の坂川での蛍見物の写真も無いのは真に残念。

 その後2次会として設営されたインド料理店「シバ」に行ったが、又料理が出るは出るは・・もう食えねぇよ・・なんでこんな店を思ったら世話人の古賀君が副社長の店らしい・・しゃぁないなと舞台でカラオケを歌ったが歌に煩い私には、ここのカラオケセットやマイクはお粗末だったな、それでも煽てられて「さくら」と「糸」の2曲も歌ってしまった。

 ホテルの部屋は全て個室、疲れてしまって折角の温泉にも入らず寝込んでしまった。結局朝もおっくうで温泉をパスしてしまい、温泉に浸からず部屋のバスで済ませてしまったのも又残念。

 2日目バスで最初に向かったのは湯田温泉出身の「中原中也記念館」私は彼の事は余り知らなかったが、30歳の若さでS12年に亡くなった歌人だ。すぐ前の「狐の足跡」で一服休憩後、移転先の山口大学に行く。お恥ずかしながら移転先は萩の方と思っていたら湯田温泉のすぐ近くだった。そこで10期生の植樹した梅と桜の木を見た後、学生食堂で昼食を摂る企画だ。

 学校訪問は始めてだが宇部にある工学部、小串にある医学部以外の経済学部を含めて全てここにある。昔下関にあった農学部もここにあるんだ。世話人さんの善行のお蔭で昨日今日と晴天、構内を歩き回って汗がでた。途中道を尋ねた女子学生に変なおじさんとの目で見られたのは残念、大先輩だぞ。

 学食に入ると学生だらけ、席には着けたが注文にもたついている間に更に列が増えたので、急遽ホテルに戻って食べようとバスに乗ったら数人が行方不明、最後の徘徊老人1人を見つけほっとする。 世話人の中心天野君、最後まで本当にご苦労だったね。まぁこれが最後なんだし良い思い出になったのじゃないかな。:終り

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全員(29名)で2,320歳以上 私は前列左から2番目。
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山口大学
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10期生が卒業50周年の平成24年に植えた桜。
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今は大学院もあるんだ。    山都逍遥歌の碑、大学学生歌は知らないがこの歌は良く歌ったものだ。 一番: 春を弔う落英の 朧に流る椹野川 追昔の影長くして 逍遥の児の胸如何に・・・
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第1回同期会 平成4年に植樹した記念の梅。
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丸屋根の全面に昔の高商、今の経済学部の紋章が刻まれている。
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経済学部校舎横の梅の記念樹辺りを散策。  学生食堂、皆真面目に学校に出ているんだ、私にとっては不思議な光景。
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もう来れないかも知れない湯田温泉駅と巨大な狐のモニュメント。

徒然日誌  同期会山口訪問 その1

2019年  09日 16:12
○ 去る4日、5日に山大経済学部10期生の第12回同期会が山口湯田温泉のホテルニュータナカで開催され出席した。今回の世話役は山口出身の6名、今回が最後と銘打っての同期会となった。

 私は少し早めに山口市内に入り、当時の下宿先竹井家、食事等何かにつけて世話になった中本家、両家共既に移転されたとは聞いていたが当時を思い浮かべながら訪ねてみようと思った事と、良く行っていたパチンコ店、映画館と最後は溜まっていたツケを卒業後今の妻が分割で払っていた飲み屋の丸福はどうなっているかなと回ってみる事を目的にした。

 山口駅に着いてから、当時世話になった中本家の淑男君(当時小学5年生)に連絡しようかどうしようかと迷いながら、不在だったら仕方がないと思い切って電話したら運よく居てくれたんだ。既に県警を定年退職し悠々自適の生活に入っており174cm80kgの偉丈夫になっているとの事、「直ぐに車で行きます」との嬉々とした声にほっとしたが、60年振りだし判るかなと昔の顔を思い出していたら、白髪だったけれど顔立ちはそのままの懐かしい顔に再開出来たんだ。

 「私も一度お会いしたかった、嬉しいです」との挨拶から始まって、彼の車で竹井家、中本家跡と回って記念撮影、家も変わり当時の面影は全く無く、あれほど通っていたのに道路や周辺の記憶も薄く余り懐かしく無い。それから、良く行っていたパチンコ店も映画館も既に別の建物になっており全く当時の雰囲気もない。60年と言うのは余りに永過ぎた

 昔の経済学部は移転して既に無く、その裏の亀山に登ってみるとウエストミンスターの鐘の音に癒されていた当時の教会は焼けて建直しされ、亀山に登る石段に昔の面影が残るだけだった。後は当時夜中に酔った勢いで知人の単車に無免許で乗って、県庁前のお堀に飛び込みそうになった為横倒しになり怪我をした道路を走ってもらい、最後に大内にある淑男君の立派な一軒家を訪ねて、ご無沙汰してしまったおじさんおばさんの仏壇に向かってお詫びしたんだ。

 ホテルニュータナカに送ってもらい同期会の受付を済ませ、淑男君とお茶をしながら、お姉さんの晏子さんの消息とか淑男の趣味の登山の話とか貴重な時間を過ごしたんだ。同期会のついでみたいな感じになったが本当に逢えて良かった。最初に話した飲み屋の丸福には近く迄行ったけれど捜さなかった、無くなっていたら寂しいし、当時の店の面影を残しておきたかったのでね。続く

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山口駅と駅前通り、県庁所在地にしては昔から寂しい駅と駅前。
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昔の下宿先、塀は無く真ん中に通路、左右は畑だった。家も昔と違い住む人も違っているようだ。 2枚目の道路にはこんな家は無く、その先の角が昔の中本家跡、今は駐車場。県庁前の私と県警前の淑男君。
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亀山、山の向こうに昔の経済学部の校舎があった。建直された教会。この通りにパチンコ屋と映画館があった。
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このアーケードは昔は無く、少し先の右側に丸福があった。  ホテルニュータナカで記念写真。